――くそ、何なんだよ。あいつ!
静雄は、調理場にあるゴミ箱を蹴り上げた。
先ほど臨也の元にコーヒーを置きに行ってからというもの、静雄は極めて苛立っていた。なぜこんなにも腹が立っているのか静雄は自分でも理解できない。そんな不可解な状態にもまた腹立ち、静雄の怒りは増長していく。
――そもそもバイト先に、クソ臨也が来るのが悪いんだ。
カラオケで歌なんて歌うタマか、あいつが。
そして静雄は、臨也のいる個室に入ってきた2人の男達の顔を思い浮かべた。一人はメガネをかけたサラリーマン風の男で、もう一人は私服のどこにでもいそうな今時の若者だった。その二人と臨也という組み合わせは、どこかチグハグで釣り合わない。
――あいつ、絶対にまた何か企んでいやがる。
情報屋である臨也が、いろいろな種類の人間と関わり合いを持つことは、別に不自然なことではない。臨也が池袋の街を、大勢の少女達を引き連れて歩いているところを静雄は何回か目撃していた。怪しげな臨也の交友関係は確かに気に食わないが、それでも自分が口を出せる部分ではないと静雄は心得ていた。
しかし、今日臨也が見知らぬ男達と会っているという事実は妙に静雄を苛立たせた。それはなぜかと考えて、静雄は一つの理由に思い当たる。
――あいつが見たこともない顔で笑っていたからだ。
慌しく部屋に入ってきた男達に、そんなに待ってないと笑いかけた臨也の顔は酷く柔らかかった。いつも臨也が浮かべる笑みといえば、人を出し抜こうとする胡散臭い笑みや、相手を見下す嘲笑ばかりだ。
静雄に対しては、あんな柔らかい笑みなど浮かべてみせた試しがない。
「くそっ」
静雄は、気づいてしまった事実に思わず舌打ちをした。これでは、まるで自分が男達に嫉妬をしているようだ。馬鹿馬鹿しいとは思いつつも、静雄の頭の中を先ほどの臨也の笑顔が駆け巡る。あの男達と臨也は、今何を話しているのか、そして一体どういう関係なのか、次々と静雄の中に疑問がわきあがった。
「ああこのくそったれが!」
こんなところでうじうじと悩んでいるのは性分でない。静雄は、乱暴にメニュー表を掴むと、調理場を飛び出した。
§
臨也のいる個室の前は、奇妙に静かだった。
他の個室のようにカラオケの音が漏れ出てもいなければ、話し声が聞こえる様子もない。静雄は、一瞬扉を開けるかどうか迷ったが、それでも男達と臨也の関係の方が気にかかった。
自らの感情のまま、ノックもせずに勢いよく扉を開く。
いきなり開かれた扉に、男達が驚いた様子でこちらを振り返った。
静雄は、部屋の中に充満する匂いに、眉を寄せる。それは静雄にとってはよく嗅ぎなれた匂いだった。
――血の匂いか…?
怪訝に思い、部屋の中に視線をさまよわせる。そして、ある一点に視線が止まった。ソファの影に何か黒い塊が転がっている。
よくよく目を凝らすと、黒い塊は人間だということが分かった。あちこちから血を流し、足はあり得ない方向に曲がっていた。そして、その顔は真っ青で、まるで生気というものが感じられない。
「い…ざ、や?」
静雄は、呆然とつぶやいた。しかし、黒い塊はピクリとも動かない。完璧に沈黙しているその様は、死んでいるかのように見えた。
「…勝手に入ってこられては困りますねぇ」
立ち尽くしている静雄に、ハナが声を掛けた。それでも静雄は、倒れた臨也から目を離せない。
静雄は臨也を凝視したまま、呟くようにして言った。
「…お前らがやったのか?」
「は?」
「お前らが、こいつをやったのかと聞いてんだ!」
静雄は臨也を指差すと、初めて男達の方へと視線を移した。リカとハナは、静雄の言葉にニヤリと笑う。
その二人の様子に、静雄はブチ切れた。静雄の中を今まで経験したことのない感情が駆け巡る。それは、怒り、悲しみ、恐怖、焦燥、全てがない交ぜになった圧倒的質量をもった感情だった。
「許さねぇ」
静雄は、部屋にあったソファに手を掛けると持ち上げる。
そして、それを男達に向かって投げつけた。
「てめぇらだけは、絶対に許さねぇ!!」
ハナとリカは突然飛んできたソファーに、慌てて横へ飛びのけた。しかし、避けた先には既に静雄が待ち構えていた。静雄は、ハナの顔面へと思い切り蹴りを叩き込む。ハナは声にならない悲鳴を上げて壁へと叩きつけられた。静雄は追い討ちをかけるように、ハナの腹へと何度も蹴りを入れる。
「お前、何しやがる!」
ハナへの攻撃に夢中になっている静雄の頭を、リカが殴りつけた。しかし、静雄はビクともしない。
静雄はゆっくりと振り向くと、リカの首を締め上げた。そして、そのままリカの顔を殴りつける。
「ぐぇっ」
リカが蛙を潰したような悲鳴を上げた。静雄のパンチに、リカの口端が切れる。
静雄は自らの拳についた血にも構わず、ひたすらリカを殴り続けた。
殴る。
蹴る。
殴る。
殴る。
殴る。
どれくらいの時間が経ったであろうか。
ひたすら殴打音のみが響く中、小さな呟きが部屋を震わせた。
「…シズちゃん」
耳に響いた小さな声に、静雄は我に返ったように攻撃する手を止める。そして、ゆっくりと後ろを振り向くと、こちらをじっと見つめる臨也と目が合った。
――生きて…いる。
静雄は、全身から力が抜けていくのを感じた。思わずその場に座り込みそうになるが、根性で踏みとどまる。
「シズちゃん、ごめん」
「何謝ってんだ。バカ」
「だって…」
臨也の視線を感じ、静雄は自分の頬へと手を当てた。すると、そこに何か暖かい液体が伝っている。
慌てて頬をぬぐうと、先ほど殴っていたときについた男達の血が頬へとべっとり付着した。きっと今自分はすごい顔になっているのだろう。微妙な表情を浮かべた臨也がじっとこちらを見つめている。
静雄は無言で臨也の元へと歩み寄ると、細心の注意を払って臨也をおぶった。
途端に臨也がくぐもった悲鳴を上げる。静雄は臨也が落ち着くのを待つと、裏口からカラオケ店を出た。
外はもう暗く、あちこちでネオンが光っている。風俗店の呼び込みが必死に客引きをしていたが、静雄と臨也のことを気にするものは誰もいない。
黙々と歩みを進める中、静雄は、背中におぶった臨也が何かを聞きたそうにしているのを感じとった。
臨也は普段は無駄によくしゃべるくせに、こういうときは決して自分から口を開かない。だから、静雄は、臨也の疑問に答えるべく声を掛ける。
「これから新羅のとこに行くぞ」
「うん。…そうじゃなくて」
そう言って、臨也は再び口ごもる。こんなに歯切れの悪い臨也は珍しい。静雄は、臨也が口を開くのを根気強く待った。
やがて、臨也は観念したかのように口を開く。
「シズちゃん、バイトはよかったの?」
臨也が本当に聞きたいことは、こんなことではないのだろう。静雄には、それが分かった。
だから静雄は一つ頷くと、精一杯の表現で自らの気持ちを言葉にした。
「お前、俺の知らないところでくたばるんじゃねえぞ。もしくたばったら絶対に許さないからな」
臨也は小さく息をのむと、ゆっくり頷いた。そして、怪我をしていない方の手でぎゅっと静雄の服を握り締める。
――温かい。
静雄は背中に感じるぬくもりに、心の底から安堵する。
服を握り締める臨也の手に自らの手を重ねると、あとは無言で新羅の家へと歩みを進めた。
勿論ハッピーエンドが前提で、ですけど。だから、私もシルエットさんのお気持ちが少し分かります!
お話を楽しんで頂けたようで嬉しいです。
よかったらまた遊びに来てくださいね!