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§ 某地方都市市民病院前


ただ激情に駆られるがまま走っていた。
自分は焦っているのか、怒っているのか、はたまた悲しいのか――静雄は自らの感情さえも把握しかねていた。

駅に降り立つまでは、まだ頭は冷静だったように思う。
しかし、病院へと向かうタクシーが昨日の事件現場を通りかかったとき、静雄の中で何かが音を立てて崩れた。
そこは飲み屋などが軒を連ねる歓楽街で、普段は人通りが激しいことを伺わせた。しかし、その一角に不自然にブルーシートが張り巡らされており、制服の警官やカメラを持った人などで人だかりができていた。
静雄は咄嗟にタクシーを降りると、周囲の人間の制止を振り切ってブルーシートをめくった。

そこにあったのは、サスペンスドラマで見るような白い人型のテープで覆われた地面に、夥しい量の血液。
だが、それらを見ても静雄には今ひとつ臨也が刺されたという実感がわかなかった。確かに地面を染める血液の量は尋常でなく、死の匂いを色濃く放っていたが、それと臨也がすぐに結びつかなかったのだ。しかし、静雄の視線がある一点に止まったとき、静雄は脇目もふらずに走り出した。

静雄が見たもの――それは血でべっとりと染まった見覚えのある携帯電話だった。

 

走る
走る
走る

静雄は、ひたすらに見知らぬ街を駆け抜ける。臨也が今どこにいるのかは、あらかじめ新羅に連絡を取っていたため知っていたが、静雄はこの街の地理まで把握しているわけではない。
だから、再びタクシーを捕まえたほうが余程早く目的地に到着できるはずなのだが、それでも静雄は立ち止まるつもりはなかった。
今、止まってしまうと、体の中を得体の知れないものが暴れだしてしまいそうな予感があった。
だから、静雄はただひたすらに走る。

そうして我武者羅に走る中、やっと市民病院が見えてきた。病院の周りは、こんもりとした森になっており、平日の夕方と言う時間帯のせいか人はほとんどみあたらなかった。夕焼けでオレンジ色に染まる病院が、先ほど見た臨也の血の色を連想させる。
静雄は、心に浮かんだ嫌な予感を振り払うようにラストスパートをかけると、病院へと滑り込んだ。

「昨日刺されたヤツはどこにいる?」

玄関を入ってすぐの場所にあった受付に駆け寄ると、静雄は勢いよく尋ねた。
病院の受付嬢は、突然現れたバーテン服の男に目を白黒させている。だが静雄が、咄嗟に臨也の身内であると名乗ると、どこか安心したように頷いた。情報屋という職業を始めてから、臨也は両親と疎遠になっている。唯一の兄弟である妹達はあの通りだし、病院の方も臨也の身元引受人が見つからなくて、困っていたのかもしれない。

受付嬢に教えられた通りに進むと、辿り着いた先はICUだった。
その部屋はガラス張りになっており、廊下からは数床のベッドが並んでいるのが見えた。ベッドの近くには、わけのわからない機械が沢山並んでいて煩く音を立てている。
物々しい雰囲気のする部屋に、今まで走り続けていた静雄の足はピタリととまる。一旦足を止めると、静雄の中で今まで渦巻いていた衝動は、嘘のようにどこかへと行ってしまった。かわりに、心の中に突如生まれた新たな感情が、静雄を足止めする。

――何だ、これ

静雄は、その部屋と廊下を隔てるガラスに顔を寄せると、食い入るようにして中を見つめた。
廊下とICUに並ぶベッドとの距離はかなりあるので、どのベッドに臨也がいるのかまでは判別することはできない。それでも、静雄は中に広がる光景から目を離すことはできなかった。
ガラスの上においた手は、なぜか小刻みに震えている。震えを止めようと意識的に力をこめると、手の震えは更に大きくなった。やがて手の震えが伝染するようにして、全身が震え始める。

「ご家族の方ですか?」

睨むようにして中を見つめる静雄を不審に思ったのだろう。ICUの中から一人の看護師が出てきて、静雄に声をかけた。
静雄はICUの中に目を向けたまま無言で頷く。普段であれば臨也という名前を口に出すことにさえも虫唾が走るのだが、今はとにかく臨也と会いたかった。そのためならば、臨也の家族だと騙ることにも躊躇はない。
看護婦は静雄が頷いたのを確認すると、10分間の面会の許可をくれた。静雄は看護婦に案内されるがままICUの中へと入る。

「折原さん、ご家族が来てくれましたよ」

看護師は、静雄を一番奥にあったベッドへと案内すると、そこで寝ている人物へ声をかけた。
そのままその場を離れる看護師を尻目に、静雄は、ゆっくりとベッドへと近づいた。そして、そこに寝ている人物の顔を覗き込む。

臨也は、ただ静かにそこにいた。
いつも屁理屈をこねる口には、酸素マスクがはめられ、顔半分を覆い隠している。そして、鋭い眼光を放つ目は、硬く閉じられていた。
様々な機械に繋がれ、身動き一つしないその様は、昔見た映画に出てきたアンドロイドを彷彿とさせた。普段は気にもとめなかったが、こうしてみると下手に顔が整っているだけに、作り物のようで生気が全く感じられない。
静雄は、右手を臨也の頬にそっとおいた。手のひらから微かに伝わる温もりに、少し心が落ち着く。だが、先ほどから続く体の震えはまだ収まりそうにない。

――何動揺してんだ、俺は。

静雄は、自らを落ち着かせようと小さく息を吐いた。以前から犬猿の中だった臨也が刺されたのだ。自分がこんなにも動揺するのはおかしい。むしろ、ざまあみやがれと高笑いするのがふさわしい場面ではないか。

――そうだ、俺はこのノミ蟲をぶっ飛ばしに来たんだ。

出掛けにトムに言って来た本来の目的をやっと思い出す。
静雄は震える右手に力をこめると、いつものように臨也の胸倉を掴んだ。掴んだ寝間着の感触が頼りなくて眉をひそめるが、それでもいつもの台詞を吐く。

「臨也、手前よくも俺をハメてくれたよなぁ」

少し語尾が震えただろうか。だが、いつも通りの声が出たと思う。
しかし、臨也は目を硬く閉じたまま何も答えない。いつもだったら、こいつはにやついた笑みを浮かべながら、こんな台詞を吐くはずだ。

『やだなぁ、シズちゃん。俺は何もやってないよ。いきなりやって来て、変な言いがかりはよしてくれない?』

まぁ、こんなところだろうか。そして静雄は、そんな臨也のムカつく態度にキレて、何か手近にあるものを投げつけるのだ。これが何百回と繰り返してきたいつもの光景だ。
しかし、目の前にいる臨也は静雄に何も言葉を返さない。かわりに臨也の周りにあるわけのわからない機械が騒々しい音を立てている。

「狸寝入りしてんじゃねーぞ。ほら、さっさと起きろ」

静雄は、臨也の胸倉を掴み上げると、前後にゆすった。
臨也の体は、静雄にされるがままぶらぶらと揺れる。
そんな様子が気に食わなくて更に大きく揺すると、力の入っていない臨也の首がガクリと後ろに仰け反った。
その様が、まるで死体のようで静雄はギクリとする。
更に、だらりと力なく垂れた手は、死の匂いを色濃く放っている。

――……死? そうだ。俺は、こいつを殺しにここに来たんだ。

静雄は、臨也の首に手をかけた。さしたる抵抗もなく、臨也の首に手がまわる。
思ったよりも細いその首は、静雄が少しでも力をこめれば簡単に骨が折れるだろう。そうすれば、臨也はあっけなく死ぬ。

そう、死ぬのだ。

「お前…死ぬのか?」

静雄は、臨也に向かって問いかけた。だが、臨也は何も答えない。
首に回していた手に少し力をこめる。途端に、臨也の横に置かれていた機械が喧しい音を立て始めた。
時間にしては数秒だったのかもしれない。
だが、静雄には長い時間が経過したように感じられた。
そうしているうちに、静雄の手のひらの下で、どくりと大きく脈が打った。
その脈の力強さに、臨也の首に回していた手から力が抜ける。そうして臨也から手を離すと、静雄の全身から一気に力が抜けて行った。
静雄は、そのまま崩れるようにして床に座り込む。

「なぁ…手前は死ぬのかよ」

座り込んだ静雄の目の前に、ベッドから落ちた臨也の腕が力なく垂れている。
静雄は臨也の腕を掴むと、その感触を確かめるように抱え込んだ。
それでも臨也は何も言わない。
静雄は、何かにすがるかのように、手にこめる力を強くする。

信じてもいない神にすがっているのか、それとも大嫌いな目の前の存在にすがっているのか。
静雄にはもう何も分からなかった。

 

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