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§ 3月、新宿某所


その日、静雄は仕事で新宿まで足を伸ばしていた。
普段であれば新宿方面の取立てはトムが行ってくれるのだが、その日は生憎と急な仕事が入り、静雄が一人で取立てに行く羽目になってしまったのだ。

トムは、静雄を一人で新宿にやるのがとても不安なようだった。
臨也を見かけても決して手を出すなと何回も念押ししていたトムの言葉を思い出し、静雄はため息をつく。
まぁ、トムの心配はもっともなものだといえるだろう。新宿といえば、静雄の天敵である折原臨也の縄張りなのだから。
もし、静雄と臨也が喧嘩を始めたら、仕事にならないどころか、警察のお世話になる事態にまで発展しかねない。

「今日はノミ蟲を見かけても我慢だ、我慢」

静雄は、自分に言い聞かせるように口の中で小さく呟く。
静雄だって毎回、好き好んで臨也と喧嘩をしているわけではないのだ。
ただ臨也を見かけると、体中の血が沸騰し、臨也以外は目に入らなくなる。
そうなるともうだめだ。
静雄の体中の細胞が臨也を潰したいと訴え始め、頭は臨也のこと以外を考えることができなってしまう。まるでたちの悪い熱病にでも浮かされたかのように。

でも流石に今日くらいは我慢しないと、静雄を信頼して仕事を任せてくれたトムの顔が立たない。
臨也を見かけても無視しようと心に固く誓った途端、静雄の視界が黒く動くものを捉えた。
この肌がヒリつく嫌な感じは、間違えようもない。

――臨也だ。

途端にざわつき始める心を、静雄は必死になだめる。先ほど心に誓ったばかりなのだから、今ここで臨也に手を出すわけにはいかない。
それでも静雄は動く臨也から目を離すことができなかった。これはもはや静雄の習性のようなものだから仕方がないのかもしれない。
静雄は、臨也を無視することをあきらめ、少し離れたところから睨みつけるようにして臨也を見つめる。

すると、臨也の様子がいつもとは異なることに気がついた。
いつもはこちらが腹立つほどに余裕たっぷりなのに、今日の臨也は何だか落ち着きがない。
一見普通なのだが、よく見るとあちこちに視線をやり全身を緊張させている。
その様子は、まるで何かを警戒しているかのようだ。

――いや、警戒っつーよりもあれは…。

静雄が自らの思考に沈みそうになったとき、ふいに臨也がこちらを振り向いた。
静雄を見つけ、臨也は驚いたように目を瞬かせている。
しかしそれもつかの間のことで、臨也はすぐに静雄から視線を外した。
静雄を無視するかのようなその仕草に、静雄の頭のねじが一気に吹っ飛ぶ。

――気に食わねぇ。俺を無視するノミ蟲だなんて。
  全く気に食わねぇし、腹が立つ!

静雄は、近くにあったタバコ屋の看板を掴むと、臨也に向かって放り投げた。
それはギリギリで臨也にあたらなかったが、それでも一定の効果はあったようだ。
驚いてバランスを崩した臨也めがけて、静雄は一気に距離をつめた。

臨也は自分めがけて走ってくる静雄を見て、慌てて逃げ出す。
しかし、臨也が逃げ込んだ路地は最近新たなビルを建てるため、通行止めになったばかりの道だった。
おかげで、静雄はやすやすと臨也を追い詰めることに成功する。
それにしても通行止めの道に逃げ込むとは、情報屋の臨也らしからぬ失態だ。臨也は駆け寄ってきた静雄に顔をしかめているが、きっと自分の失態を苦々しく思っているのだろう。

「シズちゃん……」
「こんなところで一体何をやってるのかな、臨也くんよぉ。俺を無視するとはいい度胸じゃねーか」
「嫌だな、仕事だよ。正確には仕事の後始末っていうのが正しいか。とにかくさ、今ちょっと手が離せないんだ。だから今日は見逃してよ」
「そんなこと言って俺に通用すると思ってるのかよ」
「だよねぇ」

臨也は話しながらも退路を探っているようだったが、ついに観念したのだろう。
これ見よがしに大きなため息をつくと、ポケットからナイフを取り出した。
臨也の目に剣呑な光が宿る。
これは、静雄が何度も目にしてきた臨也だ。
そうだ、臨也はこれでいい。むしろこうでなければならない。静雄以外の何かに気を取られ、怯える臨也など、本当の臨也ではない。
それでも臨也をこうも追い詰めているものが一体何なのか、静雄は少し興味があった。

「お前、誰かに追われてんのか」
「は?」
「あっちこっち嗅ぎまわってたようだからよ」
「…っ、見てたのか」

臨也は、構えたナイフはそのままに顔を思い切りゆがませた。
しかしすぐに気を取り直したようで、大仰な仕草でもって肩を竦めて見せる。

「追われてるっていうか、まあ命を狙われてるみたいな感じ? ほら、俺モテるから」
「へぇ、そいつとは気が合いそうだな」
「シズちゃんと気が合っちゃったらこっちが堪らないよ。でも実際それはないと思うなぁ。ほら、シズちゃんは嫌いだろ」

俺みたいに卑怯なヤツ、と言い終わるや否や、臨也は静雄の首筋を狙ってナイフを突き出す。
キレのあるなかなかいい動きだ。
だが、静雄にとって、ナイフでの攻撃など怖くもなんともない。
静雄は臨也のナイフを片手で受け止めると、そのまま臨也の手首を掴んだ。
手首を捻りあげられ、臨也は苦痛の声を漏らす。

「一体どこのどいつなんだ」
「はあ? 主語をつけて喋ってよ。っていうか痛いんだけど」
「だから、お前を殺そうとしてるヤツ」
「そんなこと聞いてどうするわけ? 本当に手でも組むつもり?」
「ただ気になるだけだ」
「シズちゃんの好奇心を満たす義理は、俺にはないんだけどな」
「答えねぇとこのままだぞ」

静雄は臨也の手を握る手に、徐々に力をかけていった。
臨也の手首がミシミシと嫌な音を立てているが、構わずに力をかけ続ける。
このまま力を緩めなければ、確実に臨也の手首の骨は折れるだろう。
現に臨也の額には、痛みからか脂汗が浮かんでいる。

「ああ、もう分かったよ! 私折原臨也は仕事でしくじり、無様にも取引先の関係者から命を狙われています。コレで満足?」
「だからその関係者ってヤツの…」

静雄がそういいかけたとき、ミシリと一際嫌な音が聞こえた。
一瞬臨也の手首の骨が折れたのかと思ったが、どうやらそれは違う。
その音は断続的に聞こえてきて、更に段々と大きくなっている。

静雄が音の発生源を確かめるため上を見上げたのと、大きな衝撃音が響いたのは同時だった。
隣にあった建設中のビルから、鉄骨が二人の頭上に降り注いでくる。
それを頭で理解する前に、静雄の体は動いた。

「臨也っ!」

静雄は咄嗟に、臨也の体を道路側へと突き飛ばす。
臨也の細い体は、まるでゴム鞠か何かのように地面を転がっていく。
次の瞬間、物凄い衝撃が静雄の体を襲った。今まで何回も大怪我をしてきた静雄だったが、今度の衝撃はそれの比ではなかった。
地響きのような音と共に、圧倒的な重量を持つ鉄骨が静雄の体の上に次々と積み重なっていく。
鉄骨に押しつぶされたのだ、そう理解する頃には静雄の意識は半分飛びかけていた。

熱い。
とにかく体が熱い。
そして、苦しい。
息ができない。
苦しい。

断片的にしか出てこない言葉をかき集めて、静雄は飛びそうな意識を必死に繋ぎとめる。
意識を手放せば楽になれるということは分かっていたが、静雄の本能がそれを拒否していた。
それでも徐々に狭まっていく視界の中、静雄は懸命に一つのものを探す。
それは、静雄が嫌って嫌ってやまない人物。
そして、同時にこの世でもっとも執着している人物。

「い……ざ、や」

臨也はただぼんやりと立っていた。
目の前で起こっている出来事が理解できていないかのように、棒立ちで静雄を見つめている。
――無事だったのだ、それを確認すると同時に、どうしようもない安堵が静雄の身を包む。
先ほどまで殺そうとしていた人物の安否を確認して安堵する自分が滑稽だった。だが、自分の心に嘘はつけない。

臨也はしばらくぼんやりと静雄を見つめていたが、やがてふらふらとこちらに向かって歩き出した。
その足取りは雲の上でも歩いているかのようでどこか心もとない。
そして臨也は静雄の前までやってくると、ただ黙って静雄を見下ろした。
静雄に声をかけるわけでもなく、かと言って鉄骨をどかそうとするわけでもなく、臨也は静かに静雄を見つめている。

臨也の視線を受けながら、静雄は朦朧とした意識の中で考えた。
果たして目の前の男は今、一体何を考えているのだろうか。
咄嗟のこととはいえ天敵をかばった自分を苦々しく思っているのか。
あざ笑っているのか。
それとも――

とりとめのない思考が頭を巡る中、静雄の耳が再び小さな異音を捕らえた。
みしりという嫌な音。それは、先ほど聞いたのと同じものだった。
嫌な予感に視線を上にやると、建設中のビルの足組みから鉄骨の残りが落ちかけていた。

このままでは、また鉄骨の下敷きになってしまう。
まだ自分はいい。だが、この目の前の体が下敷きになったら、一体どうなるのか。
体が頑丈な自分でさえ、今これだけのダメージを負っているのだ。貧弱な臨也が同じだけの衝撃を受ければ、死んでしまうかもしれない。
そこまで考えて、静雄は身震いをした。
――死ぬ? 冗談ではない。
こんな馬鹿げた事故で目の前の男が死ぬなどということは到底許せない。

「に…げ……ろ」

静雄は、臨也を遠ざけようと必死で言葉をつむぐ。
しかし、臨也はぼんやりとこちらを見ているばかりで、静雄の言葉が聞こえているようではない。

「たのむ…か、ら」

静雄は臨也押しやるために手を伸ばそうとしたが、鉄骨の中に埋まった体は言うことを聞かない。
左半身は完璧に鉄骨に埋もれているから、必死に右腕を臨也へと伸ばす。
渾身の力を腕にこめるが、血にぬれた右腕は悲しく宙を切るだけで、臨也へと届かない。
そうしている間にも、静雄の意識はどんどん霞がかっていく。

「にげて、くれ」

聞こえていないと分かっていても、静雄は必死に言葉をつむぐ。
そうして悲痛な思いを言葉にした途端、頭上にあるビルの足組みが崩れた。
そのまま鉄骨が降り注いできて――。

静雄の意識はついに闇へと飲み込まれた。



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