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§ 某大学病院

目を開けると、そこは紛れもない地獄だった。
目を開けた瞬間に平和島静雄の姿が視界に入るなんて絶望的な状況は、俺の少ない表現力では地獄としか言いようがない。
何でシズちゃんが俺の家に…?とか、鍵はどうしたんだ不法侵入か?なんて疑問を浮かべる暇もなく、俺はとっさに防御の姿勢をとろうとした。
しかし、結果としてはとることができなかった。
なぜなら、体が一ミリも動かなかったからだ。

まるで、ベッドに縫い付けられたのではないかと思うほど、体が重い。体を起こそうと腕に力を入れようとしたが、全身が鉛のように重くて力がこもらなかった。これでは、腕ひとつ持ち上げるのもかなりの労力を要するに違いない。
俺は、この状態に危機感をもって、周りを見渡した。

――そして、自分が置かれている状況にやっと気がついた。
俺は病院のベッドに寝かされていたのだ。それを把握すると同時に、自分がなぜ病院にいるのか、ここはどこなのかということを全て理解する。
自分は計算違いをした結果、あの淀切陣内とかいう男に刺されたのだ。

『ちょっと、暫くの間でいいんで、寝てて頂けませんかね? 病院で』

刺された瞬間に聞いた淀切の言葉を思い出し、思わず舌打ちしそうになる。
あれから一体何日が経ったのかは不明だが、今の自分の衰弱状況を考えると一定の時間が経っているであろうことは想像に難くない。
ということは、あの淀切の言葉通りに事態は運んでしまったというわけだ。
忌々しい。そして、あの時の自分の馬鹿さ加減にも腹が立つ。
そんなことを考えているうちに俺の気配に気づいたのだろう。シズちゃんがおれのベッドのそばに近寄ってきた。

「やっとお目覚めか? 臨也よぉ」
(今、機嫌が悪いから出て行ってくんない?)

そう返事をしたつもりだったのだが、かすれてうまく言葉にならなかった。
ヒュウヒュウと息を吐き出す俺に、シズちゃんは少しだけ困ったような顔をする。
そんなシズちゃんが気に食わなくて、今度は精一杯強めに声を出す。

「な、んで…シズちゃんが……東、北に…いる、のさ?」
「おめーを殺しに来たに決まってんじゃないか。い・ざ・や・くん」

そう言いながら、シズちゃんが俺の頭上に手を伸ばしてきたので、俺はとっさに身をすくめた。とはいっても、そんなことをしたところで実際には何の防御にもならないのだが。
しかし、シズちゃんの手は俺に何の危害を加えることもなく、頭上にあるナースボタンを押した。

『はい、どうかされましたか』

場違いに明るいナースの声が部屋に響き渡る。
それに対して、シズちゃんは2、3受け答えをした。
どうやら今主治医らしき人物は席をはずしているらしく、あと10分ほどでこちらに来るということで話がついたようだ。

「とはいってもここは東京なんだけどな」
「……は?」

唐突に言葉を続けたシズちゃんに、俺は思わず聞き返した。

「お前、ここが東北だと思ってんだろ。だけどな、ここは東京なんだよ。新羅の親父の手回しで、お前はこの病院に転院したんだ。意識も戻ってないから許可できないってあっちの病院はゴネてたけどな。分かってねぇと思うけど、お前が無様に刺されてからもう1週間以上経ってんだぜ?」

シズちゃんの話によると、俺を刺した犯人が分からない以上、東北にいるのは危険だとかいうことで、こっそりとこの病院に移されたらしい。
きっと波江が裏で森厳に連絡を取ってくれたのであろう。
今回のことで、俺はどうやら多方面に多大な借りを作ってしまったようだ。借りがあるということは、すなわち自分にはまだ利用価値があると見なされていることになる。
それならば、まだ尽くす手はある。

「で、シズ、ちゃん…は、そんな、俺の…お見舞い、に来て…くれた、わけだ…」
「阿呆か。誰がお前の見舞いなんぞに来るか。言ったはずだぜ? 俺は、おめーを殺しに来たって。この間はよくも俺を罠にはめてくれたな。いざやくんよぉ」

シズちゃんのサングラスの奥の目が、凶悪な光を放ち、獲物を見定めるかの如く細められた。
彼との長い付き合いの間に培われた勘が、俺に緊急事態を知らせる。
――これは捕食者の目だ。

俺は、咄嗟に退路を探った。
この病室は見たところ2階にあるようだ。それならば、シズちゃんの隙をついて窓から飛び降りればいい。おあつらえ向きにも、ベッドサイドには、空の花瓶がおいてある。あれを投げつければ、いくらこの化け物だって1、2秒は隙ができるだろう。
まだ目が覚めてから一度も体を動かしていなかったが、俺は「できる」と判断した。いや、冷静な判断などできてはいなかったのかもしれない。
しかし、自分の本能がこれ以上ここにいてはいけないと告げていた。
だから俺は、腕に刺さっていた点滴を引き抜くと、渾身の力をこめ体を起こした。

と、同時に信じられないほどの激痛が体を襲う。

「ぐぁっ……うっ…!」

俺は、思わず布団に倒れこむと、そのままのたうちまわった。経験したことのない痛みに、こらえきれずに苦悶の声を上げる。

「馬鹿! 何やってんだっ!」

シズちゃんは、布団の上で二つ折り状態になっている俺の体を抱えこむと、仰向けの状態に戻した。
そんな動作にも痛みは増幅し、額にはじっとりと嫌な脂汗が浮かんだ。
思わず腹部を手で押さえると、ぬるりとした感触が手のひらを伝う。もしかしたら腹部の傷口が開いてしまったのかもしれない。しかし、そんなことに構っている余裕はなかった。
自分は何とかしてこの化け物から逃げなくてはならない。
俺は再び体を起こそうと、ベッドに手をついて体を浮かせる。

しかし、そんな俺の必死の努力も無駄に終わった。
シズちゃんが俺の肩をつかみ、ベッドに押し付けたのだ。

「っぅ……!」

シズちゃんの馬鹿力で押さえつけられた衝撃が、腹の傷に響く。
うめき声を上げる俺を見下ろしながら、シズちゃんは俺の肩においた手を離そうとしない。
俺はシズちゃんの手から逃れようと身をよじり、その度に全身を襲う苦痛にうめき声をあげる。

「動くんじゃねぇっ!!」

地を這うような怒声に、それでもなお抵抗を続ける。足をバタつかせれば足を押さえられ、振り上げた腕は、ベッドに縫い付けられる。仕舞いには、シズちゃんがベッドの上で馬乗りになって俺を拘束した。
このような状況下で、この男から逃げられるわけがない。
理性ではそう分かっているのだが、それでも何かに取り付かれたように抵抗する。
とにかくこの男の前にいたくはなかった。その一心で、ありもしない力を振り絞る。

「頼む…動かないでくれ」

どれくらいの時間が経ったのだろうか。シズちゃんが搾り出すように言った一言に、俺は冷静さを取り戻した。
暴れたことにより腹の傷がさらに開いたのか、ベッドの上は血まみれになっていた。俺を取り押さえているシズちゃんも同じく血まれになっている。
そのままシズちゃんを見上げると、先ほど抵抗した際にサングラスがとれたのか、視線が直にあった。いつもはサングラスで隠されている瞳が、何かを恐れるように揺れている。

「傷口が開いている。これ以上は動くな」

その口調にどこか懇願するような響きがこめられているのを感じ、俺の中で抵抗しようとする気力が萎えていくのを感じた。
何かを俺に求めるシズちゃんなんてはじめてだ。それに、こんな不安げなシズちゃんも見たことがない。

「な、んで……?」
「…あ?」
「別に、俺が、死んだって…いい、じゃん」

俺の体から力が抜けたのを感じ取ったのか、シズちゃんはベッドから降りるとサイドに置いてあったパイプ椅子に腰掛けた。
そして気まずそうな様子で頭をかくと、チラリと俺のほうをうかがった。再び視線が絡み合う。シズちゃんの真意が知りたくて、俺は真正面からその目を見つめ返した。
そんな俺の様子に、シズちゃんは一つため息をつくと、意を決したように言う。

「俺はな、臨也。お前が死ぬのは絶対に嫌なんだ」



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