セルティ・ストゥルルソンにとって、その日は極めて良い一日だった。
少なくとも銀行に行くまでの間は。
セルティは、またしてもエミリアの実験に付き合い、本日150万円もの臨時収入を得たのだ。
そしてそのお金をどうするのか慎重に考えた結果、先日の苦い経験も踏まえて、まず貯金することに決めた。
しかし、セルティのようなフルフェイスヘルメットをかぶった人間が銀行に入ろうものなら、銀行強盗扱いされかねない。
そこで、セルティは新羅のマンションの近くにある顔なじみの銀行にまで足を伸ばし、こうして今待合スペースのソファーに座っているわけである。
――ふふ、この金をどう使おうかな。まずは、新羅に新しい白衣でも買ってやって…。
そういえば、昨日の世界ふしぎ発見でマチュピチュ特集をやってたな。
たまには新羅と二人で旅行に行くのも悪くないかも…。
この瞬間、セルティは確かに幸せであった。
しかし、そんなセルティの小さな幸せは、凄い衝撃音と共に崩れ去ることとなる。
一人の男が、銀行内で銃を発砲したのだ。
「おい! ここにいるヤツら全員、俺たちの言うことをよく聞け。抵抗するヤツは撃つぞ!」
ニット帽を目深にかぶった男がそう言って、再び天井に向け3回銃を発砲した。
途端に、銀行の店内は悲鳴に包まれる。
セルティは、あり得ない状況に目を疑った。
――銀行強盗って…マジ…?
テレビドラマの中でしか見られないような状態に動揺するも、セルティは咄嗟に物陰に身を隠す。
自らも常識外れの存在であるため、緊急事態にも一応ある程度の耐性はできている。
セルティは、犯人の死角になるところまで移動すると、こっそりと犯人の様子を伺った。
犯人と思われる男の数は3人。
一人は先ほど発砲した男で、受付のカウンターの前に陣取り、銀行の店内にいる者全員を威嚇している。もう一人は、銃を持った男の横に立ち、どうやら銀行員に金銭を要求し袋詰めする役目のようだ。そして、最後の一人は、出入り口の横に立ち、店内にいる人間が逃げ出さないか見張っている。3人ともニット帽を目深にかぶり、サングラスをかけていた。
「よし。客は全員、手を頭の後ろで組め。そして、床にうつぶせになるんだ」
銃を持った男の言葉に、客は全員床にはいつくばった。
セルティは、物陰からその様子を見て、心の中で舌打ちをした。平日の昼過ぎなだけあって、客はお年寄りや主婦が多い。中には小さな子供連れの母親もおり、子供は今にも泣き出しそうだ。
――これじゃ、あまり大立ち回りはできないかな。
セルティは、被害を出さず現状を切り抜ける方法はないものかと周囲を見回した。
と、そのときである。セルティの視界が、見慣れた黒い影が動くのを捕らえた。
その影は、犯人の死角をつきつつセルティに向かって真っ直ぐに進んでくる。
「おまえ…!」
「やぁ、セルティ久しぶりだね。最近は、都市伝説まで貯金しに来るようになったのかな。全くすごい時代になったものだよねぇ」
黒い影――臨也は、セルティの横までやってくると、のほほんとした様子で言葉を発した。一応、犯人に気づかれないよう声のボリュームは落としているものの、まるで世間話をしているかのようで、臨也には緊張感のかけらもない。
「お前、こんなところで何をやってるんだ!」
「何って、ATMに金をおろしに来たんだけど。それにしても何だか面白いことになっているようだね」
「面白いことあるか! 銀行強盗だぞ」
「それじゃ、貴重な場面に出くわすことができてよかったとでも言い換えようか。銀行強盗をやっている場面に出くわすことなんてあまりないものね」
銀行強盗をやろうとする人間や既にやった人間と話す機会はあってもさ、と言葉を続ける臨也に、セルティは頭を抱えたくなった。と言っても、セルティに抱えることができる頭はないのだが。
しかし例えこんな奴だとしても、知り合いが近くにいることは少しは心強い。セルティは、気を取り直すと、犯人を取り押さえる算段をPDAに打ち込んだ。
「どうやったらこいつらを取り押さえることができると思う?」
「うーん、セルティは強盗を取り押さえるつもりなの?」
「当たり前だ! こいつら一般客に向かって発砲するかもしれないんだぞ。危ないじゃないか」
「君も随分人間らしくなったものだねぇ。まぁ、俺としてはこのままでいようがどっちでもいいんだけど。セルティが、強盗を取り押さえたいっていうのなら協力してもいいよ」
そういって、臨也は5本指を立てた。
その様子に、セルティの顔がひきつりそうになる。といっても、セルティには引きつる顔が…以下略。
「金、とるのか…?」
「まぁ、相手は銃を持っているし。ただで危ない思いをするのは嫌だからね」
「………分かった」
「毎度あり。…とは言ってもさ、君が影で男たちを縛り上げるのが一番早いんじゃないかな?」
「この前の懸賞金騒ぎには参ったからな。余り騒ぎを大きくしたくない」
「へぇ。まあいいけど。それじゃこの銀行のセキュリティについて説明しようか」
そういって、臨也はポケットからメモ帳を出すと、銀行の見取り図を描き始めた。臨也によると、この銀行は内部のシステムにより、客のいる待合スペースと犯人のいる受付カウンターの間にシャッターを下ろすことができるらしい。
「シャッターを下ろせば、セルティは好き勝手に暴れられるだろ?」
「ああ。でもシャッターを下ろすには、奥の端末をいじらなくちゃいけないのか…」
「そうだね。だから、セルティがシャッターを下ろすまでの間、俺が囮になって犯人の気をそらせるよ」
「……いいのか?」
「いいよ。銀行強盗をやる人間ってものにも興味があるし」
臨也の言葉にセルティは少し不安を抱いたが、とりあえずは臨也を信用することにした。
相手は銃を持っているが、これまでの様子から推察するに人を撃つことに慣れているようではない。臨也ならば、相手の隙をついて攻撃することも可能だろう。
「それじゃあ、また後で」
臨也は、ごく軽い調子でセルティに手を振った。その様子は、今にも鼻歌を歌いだしそうな程に楽しそうだ。
――この変人め
セルティは、心の中で悪態をつきつつ、目的の場所に向かって移動を開始した。同時に、臨也もひらりと犯人の前に進み出る。
「何だお前! どこから出てきやがった!!」
物陰から突然現れた臨也に、犯人の一人が慌てて銃を向けた。臨也は物怖じせずに、男の元へと歩みを進めていく。
「すみません。トイレから出てきたんですけどね」
「ああ? トイレだと?」
「ええ。トイレの窓からパトカーが見えたので、お知らせに」
「もうポリ公が来たのか!」
臨也の言葉に、犯人たちが一気に慌て始める。
臨也はその様子を見てうっすらと笑みを浮かべると、銃を持った男の前に立った。
「銀行には、警察に直通で繋がる非常時用のボタンが用意されているんですよ。きっと行員の方が押されたのでしょう」
「…な、何だお前!」
「別に怪しい者ではありません。通りすがりの客ですよ。ただ使い方によっては、あなたたちにとって有利に事が運ぶかもしれませんがね」
「……何だと?」
セルティは、目的の端末のあるスペースにまで辿り着いた。
あらかじめ決めていた合図を臨也に影で送る。それを確認して臨也が小さくうなづいた。
「それでは、今から少し問題を出しましょうか。まず第1問。もうすぐ銀行の周りを警察官が取り囲みます。さて、あなたたちはどうやって逃げればいいのでしょうか」
臨也は、芝居がかった仕草で指を一本立てながら流暢に言葉を紡ぐ。普通の人間がやっても寒くなりそうな仕草だが、顔立ちの整った臨也が行うと妙に様になる。
犯人はそんな臨也の様子を呆けたように見ていたが、我に返ると焦ったように叫んだ。
「おい、人質になりそうな女を見繕え!」
入り口にいた見張り番が、視線を店内の客へと向けた。途端に店内にざわめきが起こる。
その様子を見ていた臨也が、待ったをかけるように見張りの男へと手をあげた。
「ヒント1。店内にいる客は老人や女子供ばかりで、腰が抜けて動けそうにありません。動けない人間を人質にしても足手まといになるだけです」
「それじゃあ銀行員だ。窓口の兄ちゃんに人質になってもらおうか」
銃を持った男が、窓口にいる銀行員の男性へと銃を向けた。
「ヒント2。銀行員は緊急時のために、護身術を身に着けています。柔道や空手の有段者も多い」
「……そうするとお前しかいないってことになるよなぁ。ひ弱な兄ちゃんよぉ」
男は臨也を後ろから拘束すると、臨也の頭へと銃を突きつけた。
途端に、店内で悲鳴があがる。しかし、臨也は銃を突きつけられた状態で不敵な笑みを浮かべた。
「正解! いいねぇ。馬鹿でも馬鹿なりに物事を考える人間ってのは嫌いじゃないよ」
「あ?」
「むしろ好きといってもいいね。考えが極めて読みやすい。同じ馬鹿なんだから、シズちゃんにも見習ってもらいたいよ」
「ごちゃごちゃうるせーぞ。何言ってんだお前」
セルティは、端末を操作している手はそのままに、臨也のほうを伺った。
臨也は犯人に銃を突きつけられている状況下で、凶悪な笑みを浮かべていた。まるで悪魔のようにも見えるその表情に、セルティは身震いをする。
そして強盗たちが死なないよう、柄にもなく神に祈った。
と、そのときである。唐突に銀行の自動ドア開いた。
開いたドアに目を遣り、セルティは再び頭を抱えたくなる。
――厄日か。今日は…。
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§ 某大学病院
目を開けると、そこは紛れもない地獄だった。
目を開けた瞬間に平和島静雄の姿が視界に入るなんて絶望的な状況は、俺の少ない表現力では地獄としか言いようがない。
何でシズちゃんが俺の家に…?とか、鍵はどうしたんだ不法侵入か?なんて疑問を浮かべる暇もなく、俺はとっさに防御の姿勢をとろうとした。
しかし、結果としてはとることができなかった。
なぜなら、体が一ミリも動かなかったからだ。
まるで、ベッドに縫い付けられたのではないかと思うほど、体が重い。体を起こそうと腕に力を入れようとしたが、全身が鉛のように重くて力がこもらなかった。これでは、腕ひとつ持ち上げるのもかなりの労力を要するに違いない。
俺は、この状態に危機感をもって、周りを見渡した。
――そして、自分が置かれている状況にやっと気がついた。
俺は病院のベッドに寝かされていたのだ。それを把握すると同時に、自分がなぜ病院にいるのか、ここはどこなのかということを全て理解する。
自分は計算違いをした結果、あの淀切陣内とかいう男に刺されたのだ。
『ちょっと、暫くの間でいいんで、寝てて頂けませんかね? 病院で』
刺された瞬間に聞いた淀切の言葉を思い出し、思わず舌打ちしそうになる。
あれから一体何日が経ったのかは不明だが、今の自分の衰弱状況を考えると一定の時間が経っているであろうことは想像に難くない。
ということは、あの淀切の言葉通りに事態は運んでしまったというわけだ。
忌々しい。そして、あの時の自分の馬鹿さ加減にも腹が立つ。
そんなことを考えているうちに俺の気配に気づいたのだろう。シズちゃんがおれのベッドのそばに近寄ってきた。
「やっとお目覚めか? 臨也よぉ」
(今、機嫌が悪いから出て行ってくんない?)
そう返事をしたつもりだったのだが、かすれてうまく言葉にならなかった。
ヒュウヒュウと息を吐き出す俺に、シズちゃんは少しだけ困ったような顔をする。
そんなシズちゃんが気に食わなくて、今度は精一杯強めに声を出す。
「な、んで…シズちゃんが……東、北に…いる、のさ?」
「おめーを殺しに来たに決まってんじゃないか。い・ざ・や・くん」
そう言いながら、シズちゃんが俺の頭上に手を伸ばしてきたので、俺はとっさに身をすくめた。とはいっても、そんなことをしたところで実際には何の防御にもならないのだが。
しかし、シズちゃんの手は俺に何の危害を加えることもなく、頭上にあるナースボタンを押した。
『はい、どうかされましたか』
場違いに明るいナースの声が部屋に響き渡る。
それに対して、シズちゃんは2、3受け答えをした。
どうやら今主治医らしき人物は席をはずしているらしく、あと10分ほどでこちらに来るということで話がついたようだ。
「とはいってもここは東京なんだけどな」
「……は?」
唐突に言葉を続けたシズちゃんに、俺は思わず聞き返した。
「お前、ここが東北だと思ってんだろ。だけどな、ここは東京なんだよ。新羅の親父の手回しで、お前はこの病院に転院したんだ。意識も戻ってないから許可できないってあっちの病院はゴネてたけどな。分かってねぇと思うけど、お前が無様に刺されてからもう1週間以上経ってんだぜ?」
シズちゃんの話によると、俺を刺した犯人が分からない以上、東北にいるのは危険だとかいうことで、こっそりとこの病院に移されたらしい。
きっと波江が裏で森厳に連絡を取ってくれたのであろう。
今回のことで、俺はどうやら多方面に多大な借りを作ってしまったようだ。借りがあるということは、すなわち自分にはまだ利用価値があると見なされていることになる。
それならば、まだ尽くす手はある。
「で、シズ、ちゃん…は、そんな、俺の…お見舞い、に来て…くれた、わけだ…」
「阿呆か。誰がお前の見舞いなんぞに来るか。言ったはずだぜ? 俺は、おめーを殺しに来たって。この間はよくも俺を罠にはめてくれたな。いざやくんよぉ」
シズちゃんのサングラスの奥の目が、凶悪な光を放ち、獲物を見定めるかの如く細められた。
彼との長い付き合いの間に培われた勘が、俺に緊急事態を知らせる。
――これは捕食者の目だ。
俺は、咄嗟に退路を探った。
この病室は見たところ2階にあるようだ。それならば、シズちゃんの隙をついて窓から飛び降りればいい。おあつらえ向きにも、ベッドサイドには、空の花瓶がおいてある。あれを投げつければ、いくらこの化け物だって1、2秒は隙ができるだろう。
まだ目が覚めてから一度も体を動かしていなかったが、俺は「できる」と判断した。いや、冷静な判断などできてはいなかったのかもしれない。
しかし、自分の本能がこれ以上ここにいてはいけないと告げていた。
だから俺は、腕に刺さっていた点滴を引き抜くと、渾身の力をこめ体を起こした。
と、同時に信じられないほどの激痛が体を襲う。
「ぐぁっ……うっ…!」
俺は、思わず布団に倒れこむと、そのままのたうちまわった。経験したことのない痛みに、こらえきれずに苦悶の声を上げる。
「馬鹿! 何やってんだっ!」
シズちゃんは、布団の上で二つ折り状態になっている俺の体を抱えこむと、仰向けの状態に戻した。
そんな動作にも痛みは増幅し、額にはじっとりと嫌な脂汗が浮かんだ。
思わず腹部を手で押さえると、ぬるりとした感触が手のひらを伝う。もしかしたら腹部の傷口が開いてしまったのかもしれない。しかし、そんなことに構っている余裕はなかった。
自分は何とかしてこの化け物から逃げなくてはならない。
俺は再び体を起こそうと、ベッドに手をついて体を浮かせる。
しかし、そんな俺の必死の努力も無駄に終わった。
シズちゃんが俺の肩をつかみ、ベッドに押し付けたのだ。
「っぅ……!」
シズちゃんの馬鹿力で押さえつけられた衝撃が、腹の傷に響く。
うめき声を上げる俺を見下ろしながら、シズちゃんは俺の肩においた手を離そうとしない。
俺はシズちゃんの手から逃れようと身をよじり、その度に全身を襲う苦痛にうめき声をあげる。
「動くんじゃねぇっ!!」
地を這うような怒声に、それでもなお抵抗を続ける。足をバタつかせれば足を押さえられ、振り上げた腕は、ベッドに縫い付けられる。仕舞いには、シズちゃんがベッドの上で馬乗りになって俺を拘束した。
このような状況下で、この男から逃げられるわけがない。
理性ではそう分かっているのだが、それでも何かに取り付かれたように抵抗する。
とにかくこの男の前にいたくはなかった。その一心で、ありもしない力を振り絞る。
「頼む…動かないでくれ」
どれくらいの時間が経ったのだろうか。シズちゃんが搾り出すように言った一言に、俺は冷静さを取り戻した。
暴れたことにより腹の傷がさらに開いたのか、ベッドの上は血まみれになっていた。俺を取り押さえているシズちゃんも同じく血まれになっている。
そのままシズちゃんを見上げると、先ほど抵抗した際にサングラスがとれたのか、視線が直にあった。いつもはサングラスで隠されている瞳が、何かを恐れるように揺れている。
「傷口が開いている。これ以上は動くな」
その口調にどこか懇願するような響きがこめられているのを感じ、俺の中で抵抗しようとする気力が萎えていくのを感じた。
何かを俺に求めるシズちゃんなんてはじめてだ。それに、こんな不安げなシズちゃんも見たことがない。
「な、んで……?」
「…あ?」
「別に、俺が、死んだって…いい、じゃん」
俺の体から力が抜けたのを感じ取ったのか、シズちゃんはベッドから降りるとサイドに置いてあったパイプ椅子に腰掛けた。
そして気まずそうな様子で頭をかくと、チラリと俺のほうをうかがった。再び視線が絡み合う。シズちゃんの真意が知りたくて、俺は真正面からその目を見つめ返した。
そんな俺の様子に、シズちゃんは一つため息をつくと、意を決したように言う。
「俺はな、臨也。お前が死ぬのは絶対に嫌なんだ」
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