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まず最初に異変を認識したのは、夕食時だった。

臨也の夕食だけがやって来なかったのだ。
臨也は鯛焼きを食べて腹が空いていないからいいのだと笑っていたが、静雄は無理やり自分の食事を分け与えた。
今まではあの厚いコートのせいで気にならなかったのだが、入院着になると臨也はかなり痩せているのだということが分かる。きっと日ごろから不摂生をしていたのだろう。
妙に薄い体は、静雄を落ち着かない気持ちにさせる。
だから、臨也はもっと太るべきなのだ。

静雄が臨也の口におかずを突っ込むと、臨也は案外素直に飲みこんだ。
その様子が面白くて、静雄は何度も臨也の口元へとご飯を運ぶ。
その動作を数回繰り返したところで、やっと臨也は不満の声を上げた。

「ちょっと待ってよ。介添えが必要なのはむしろシズちゃんの方じゃないか」
「いいじゃねーか。面白れぇし」
「俺はおもちゃじゃないんだけどなぁ」

そうぼやく口にもう一度おかずを突っ込もうと静雄が箸を持ち上げた瞬間、ベッド横のカーテンが開いた。

「折原さん、やっぱりここにいたんですね」
「あ、俺に何か用でした?」

カーテンの中に、一人のナースが入ってくる。
きっと病室にいなかった臨也を探していたのだろう。少し息を切らしていた。

「精密検査の結果が出たので、先生からお話があります。4階の来客室に来て下さい」
「ああ、はい。分かりました」
「看護婦さん、こいつの晩飯がまだ来ていないようなんすけど」

看護師は、静雄の言葉に首を傾げる。

「あら、おかしいわねぇ。でもさっき覗いたときは、ちゃんと病室に置いてありましたよ?」
「え? そうですか?」

驚きの声を上げた臨也を、静雄はにらみつけた。
夕食を食べるのを厭った臨也が、静雄に嘘をついたと思ったのだ。
看護師が出て行ったのを見計らって、静雄は臨也を問い詰めた。

「手前、嘘をつきやがったな」
「そんなことないよ。俺が部屋を出たときには本当に来てなかったんだから」
「とか言って、メシを食いたくなかっただけだろう?」
「だから違うってば」

そう言って唇をとがらせる臨也は、嘘をついているようには見えない。

「…まぁ、今回だけは信じてやる」
「今回だけはってなんだよ。俺って信用ないなぁ」
「それは以前の手前の行いが悪い」
「ひどい! でもどうして俺の食事だけ遅れてきたんだろうね」
「さぁな。配膳する人が忘れてたんじゃねぇか? それに気がついて後から持ってきたんだろ」
「そうかなぁ…」

臨也は、何かを考え込むようにして俯いた。
静雄はそんなに気にすることでもないと思うのだが、臨也はやはり情緒不安定になっているのだろうか。
記憶がないと、些細なことでも不安に思うのかもしれない。

「まぁ、来たならいいじゃねーか。飯、食って来いよ」
「もういいよ。おかげで腹いっぱいになったし」
「はぁ? 手前、ちっとも食ってないじゃねぇか」
「そんなことないよ。それに先生も呼んでいるみたいだしさ、ちょっと行って来る」
「おい、臨也!」

静雄の呼びかけを無視して、臨也は病室を出て行く。
自分に都合の悪い話になると逃げ出すところは気に食わないが、それでも以前に比べればマシになったのかもしれない。以前は、何だかんだと屁理屈をこねて自分を正当化していたのだから。
静雄は、昔から臨也のそういうところが嫌いだった。

「畜生、嫌なことを思い出しちまった」

静雄は残りの夕食を平らげると、ベッドに横になった。
おしゃべりな人間が出て行ったからだろうか、こうしているとやけに部屋が静かに感じられる。
静雄は、静寂を味わうようにして目を閉じた。

聞こえてくるのは、隣のベッドの患者が新聞をめくる音に空調の音、そしてどこからか漏れ聞こえてくるテレビの音ばかり。
耳障りのよいテノールの声は、どこからも聞こえてこない。

以前は、ただ静かな時間を望んでいた。
それなのに、今ではそれが物足りない、だなんて。

 

「……に運んで」

どれくらいの時間がたっただろうか。
俄かに騒がしくなった周囲に、静雄は目を開いた。時計に目を移すと、もう21時を回っていた。
臨也がこの部屋を出て行ったのが19時頃だったから、いつの間にか寝入ってしまったらしい。

「何かあったんですか?」

静雄はカーテンを開き、隣のベッドの患者に声をかける。
雑誌をめくっていた中年の男は、さしたる興味もなさそうに答えた。

「ああ、入院患者が階段から落ちたんだってよ」
「危ないっすね。大丈夫なんですか?」
「階段の上から下まで転がり落ちたって話だから、ひょっとしたらヤバイかもな」
「へぇ」

静雄が頷くと、反対側のベッドから違う患者が声をかけてきた。

「なぁ、落ちたのって兄ちゃんの連れじゃないか?」
「え?」
「俺は騒ぎになってたから見に行ったんだけどな。運ばれていった奴にどうも見覚えがあるんだ。なかなか思い出せなかったんだが、あれは今日この部屋に遊びに来てた奴だと思う」
「…臨也が」

静雄の背筋に悪寒が走った。
通常の臨也ならば、階段から落ちたところでかすり傷ひとつ負わないだろう。それだけ臨也は、運動神経がいいし、危機対処にも秀でている。
だが、今の臨也は過去に吸収したはずの知識まで全て忘れてしまっている。
だから、
ひょっとして、
もしかしたら……

「ちょっと様子を見てきます」
「おいおい、兄ちゃんは絶対安静じゃなかったのかよ?!」

男の制止を振り切って、静雄は部屋を飛び出した。
それでも最初は歩いていたのだが、次第に早歩きになり、知らぬ間に小走りになり――
静雄は、いつの間にか廊下を全力疾走していた。
走りながらも、静雄の脳裏にはぐったりとして動かない臨也のイメージが繰り返し再生される。
いくら頭を振っても、悪いイメージは頭にこびりついて離れそうにない。

「くそっ!」

廊下を歩いている人間は、包帯だらけの男が廊下を全力疾走するという光景に驚いて自然と道を開ける。
だから、走る静雄の障害になるものは何もない。
だが、突然聞こえた悲鳴のような声が静雄を足止めした。

「平和島さん。何やってるんですか、ベッドに戻ってください!」

振り返ると、そこには先ほど臨也を呼びに来た看護師が立っていた。
看護師は顔を真っ青にし、焦りの表情を浮かべている。
それはそうだろう、絶対安静のはずの患者が廊下を猛スピードで走っていたのだから。
だが、静雄は看護師の様子など気にもとめずに、畳み掛けるようにして聞いた。

「あいつはどこですか?」
「あ、あいつって?」
「折原臨也です。昨日俺と運ばれてきた」
「今は個室に移されてますけど…。行っても会えませんから、とにかく平和島さんは病室に戻ってください。あなた、絶対安静なんですよ!」

看護師は、静雄の手を引き、病室へと連れ戻そうとする。
しかし、静雄はその手を振り払った。

「行っても会えないってどういうことだ。あいつはそんなに悪いのか」
「……階段から落ちたっていう話は聞きましたよね。でも怪我自体は大したことがないんです。だからそんなに心配されなくても大丈夫ですよ」
「でも今、個室に移されたって」
「折原さん、ちょっと興奮状態にあったものですから。鎮静剤を打ったので今は眠っているんです。だから会えないと言っただけで、別に大怪我をしたわけではありません」
「そう、ですか…」

静雄は足元から力が抜けていくのを感じた。
床にへたり込みそうになるのを、必死で踏みとどまる。

「折原さんが起きたら教えますから、今はとにかく病室に戻ってください。ね?」
「あいつ、どこにいるんですか?」
「312号室です」

312号室といえば、静雄の部屋の2つ隣だ。
ということは、静雄は臨也がいる部屋の前を素通りしたことになる。
そして同時に、静雄は行くあてもなく走り回っていたのだと気づいた。きっとこの看護師に声を掛けられなかったら、まだ病院内を走り続けていたに違いない。
どうやら少し頭を冷やした方がいいようだ。

静雄は、病室まで送るという看護師の申し出を断って、今来た道を戻りはじめた。
臨也の怪我が大したことがないようで心底安堵した。
だが、少しだけ心に引っかかることがある。

それは、今の状況の不自然さだった。
臨也は元来とても注意深い男だったはずだ。
それが記憶を失い、挙句の果てには階段から足を滑らせるだなんて。全く臨也らしくない。

あと、興奮状態にあるという臨也の状態も気になる。
記憶を失ってからも臨也は、極めて冷静に状況把握に努めていた。
きっと、元々少しのことには動じない性格をしているのだと思う。
その臨也が、階段から落ちたくらいで鎮静剤を打たなければならないほどの興奮状態に陥るだろうか。

不自然だ。
何か全てがちぐはぐで、腑に落ちない。

「ああ、うぜえ」

ついいつもの癖で頭をかきむしろうとし、静雄の左手に激痛が走った。

――そういやぁ、左手怪我してたんだっけな。いや、ちょっと待てよ…

そもそもこんな怪我を負った原因は、臨也と一緒に事故に巻き込まれたことにあるのだ。
あの事故に遭う前に、臨也は何と言っていただろうか。
確か、仕事でしくじり、取引先の関係者に命を狙われているとか言っていなかったか。
静雄の脳裏に、不自然なほど全身を緊張させ警戒していたあの日の臨也の姿が思い浮かぶ。

それによくよく考えてみると、あの事故だっておかしい。
まず鉄骨が落ちてきて、その後に足組みが崩れたのだ。最初に落ちてきた鉄骨は、一体どこから降ってきたのだろうか。
まだ骨組みしかできていない建設中のビルの、それも道路ギリギリのところに、鉄骨を置くなんてことは考えがたい。
ということは、誰かが故意に鉄骨を上まで運び、落としたという可能性が高いだろう。

そして、何よりも奇妙なのは、これだけの事故なのに新聞に小さな記事すら載らず、警察も未だ事情聴取に来ないという今の状況だ。

――事故が、誰かにもみ消されているのか…?

臨也の取引相手は、裏の世界で力を持つ大物も多いと聞いたことがある。
そんな相手ならば、今回のことをもみ消すのはとても簡単なことなのかもしれない。
静雄の脳内に、様々な出来事がフラッシュバックした。

一人だけ遅れてきた臨也の夕食。
どこか情緒不安定だった臨也。
そして、階段から落ちたのだという今日の事故。

「おい、冗談だろ…」

全てのピースが綺麗にはまっていく。
同時に、静雄は先ほど走ってきた道を再び全力疾走で戻り始めた。
目指す先は、312号室だ。

早くしないと、臨也の命が危ない。

 

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