§ 10月4日、都内某所
「シズちゃん、さっきからぼうっとしてどうしたの?」
「あ…ああ、何でもない」
臨也に手元を覗かれ、静雄は急いで目の前に広げていた紙を片付けた。
しかし、焦りが出たのか数枚の紙が静雄の手を零れ落ちる。すかさず臨也は、床に散らばったその紙を拾い上げた。
「なになに? 珍しく机に向かっているから何を書いているかと思えば、ただの白紙じゃないか」
「俺も日記をつけようかと思ったんだよ。手前の真似をしてな」
「へぇ、シズちゃんはそんなことをしそうにないイメージなのに。一体どういう風の吹き回し?」
「こんな時だからな、記録が多いにこしたことはねぇだろ」
「……ごめん」
いつかの臨也の言葉を借りて肩をすくめると、臨也は目に見えて落ち込んだ。
俯いてしまったその顔に、静雄は内心焦る。こんな些細な言葉に目の前の男が落ち込むとは思わなかった。
「すまねぇ。そういう意味で言ったんじゃねぇんだ。いつも言ってるだろ。今回のことはお前のせいじゃない」
「でも…」
「俺だって今の生活を結構楽しんでるんだぜ。だから手前がそんな顔をする必要はねぇんだ」
静雄がそう言葉を続けると、臨也がそろそろと顔を上げた。
静雄は臨也に向かって力強く頷いてみせる。
すると、臨也は困ったような笑みを浮かべた。それはいつも臨也が見せる笑顔とは少し異なっていたが、それでもやっと見ることのできた笑みに、静雄は安堵する。
先ほどの言葉は紛れもなく静雄の本心だ。
静雄は今回のことを臨也のせいだとは思っていないし、むしろ今の生活を楽しんでいる。だから、この生活を始めるきっかけを与えてくれた臨也に感謝さえしているくらいだ。
だが、いくら静雄が言葉で否定をしたところで臨也は納得することはないのだろう。それならばこれ以上この話題を続けるのは得策ではない。
静雄はそう判断して、話題を変える。
「で、さっき俺を呼んだよな。一体何の用事だったんだ?」
「…ああ。えっとさ、今日は中秋の名月だろ? だからお月見団子でも作ろうかと思って」
「へぇ、月見か。それはいいかもな」
静雄は、春に臨也と花見をしたことを思い出した。
意外とこの男はイベントごとが好きなのかもしれない。そう考えると今まで思い描いていた臨也のイメージとのギャップに何だかおかしくなる。
「でさ、家に上新粉がないみたいなんだ。だから買いに行っても…」
「臨也」
「ああもう、分かったよ。それじゃあシズちゃんが買ってきてくれるかい?」
「分かった。上新粉とかいうもんだけでいいんだな」
「ええっと。そうだねぇ…」
ここぞとばかりに臨也は様々な商品を列挙し始める。
生鮮食品から日用品まで含まれた商品の数々に、静雄はため息をついた。これでは買い物をするのに相当な時間がかかりそうだ。
「ったく、注文が多いな」
「だって、ネット通販だけじゃやっぱり限界があるし。たまには買出しに行かないと」
「だからってこんなに一気に買ってくる必要はねぇじゃねーか。両手が塞がるぞ」
「シズちゃんなら大丈夫だろう?」
「まぁ、そうだけどよ…」
静雄は渋々と頷いた。確かに静雄の力ならば、荷物の重さうんぬんはあまり関係がない。
静雄が気にしているのは買い物に時間がかかり、長時間家を留守にする羽目になるということなのだが、目の前の男はそんなことには気づいていないのだろう。
嬉々としてレシピ本を広げている臨也に、静雄は内心でため息をつく。
静雄がどれだけ執着しているのか、この男はちっとも分かっていない。
「ああ、クソッ! 何でこんな野郎を好きになっちまったんだろうな」
「ん? 何か言った?」
「何でもねーよ。それより臨也、俺が留守にしている間に勝手にこの家から出てくんじゃねぇぞ」
「約束だからね。それくらい分かってるよ」
「あと誰かが訪ねてきても絶対に出るなよ。居留守を使え」
「………シズちゃんってば、俺を幼稚園児か何かと勘違いしていないかい?」
静雄の言葉に、臨也は不満そうに唇を尖らせた。
まるでどっかの母親みたいだとぼやくその姿は、本当の子供のようで、静雄の顔に思わず笑みがこぼれる。
すると、静雄が笑った気配に気づいたのだろう。臨也が恨めしそうに静雄を睨みつけてきた。
そんな睨みなどちっとも怖くはないが、臨也の機嫌を損ねるのは面倒だ。
静雄は、臨也を引き寄せるとその耳元に小さく囁いた。
「勘違いなんてしてねぇよ。子供にはこんなことできないだろ?」
そして、臨也の薄い唇にさっと口付ける。
ほんの一瞬の軽い接触に、臨也は驚いたように目を瞬かせた。この半年間で分かったことだが、この目の前の男は突発的な出来事に弱いのだ。普段は済ました顔をしているくせに、予想外の出来事には固まってしまう。
静雄は、そんな臨也が可愛いと最近思うようになってきていた。
しかし、こんなことを臨也に言うつもりはない。いや、言えるはずがない。
「それに、幼稚園児の方が大人しく留守番ができるだけ、手前よりもはるかに優秀だ」
「……何ていうかさぁ、シズちゃんって本当にひどいよね」
「こんな風に言われたくなければちゃんとさっき言ったことを守れよな。じゃあ行って来る」
静雄は、まだ顔が赤い臨也の頭をかき混ぜると、財布を掴み家を出た。
背後から、死ねという言葉が聞こえてきた気がするが気にしない。
ドアを開けると、少し肌寒い10月の空気が静雄の体を包んだ。
ついこの間まで夏だと思っていたのに、もうすっかり秋なのだ。
――これは厚着させないと、臨也のヤツまた風邪をひくな。
唐突に浮かんだ自分の思考に、静雄は苦笑する。
これでは本当に臨也の母親にでもなったみたいだ。
――母親なんて冗談じゃねぇ。俺がなりたいのは……。
静雄は一つ頭を振ると、考えかけていた思考を放棄した。ただでさえ時間がかかりそうな買い物だ。長時間臨也を一人にすることは気が進まないから、さっさと済ませて、早く家に帰らなければならない。
そして家に帰ったら、団子を作って臨也と一緒に月見をするのだ。
静雄が空を見上げると、今日は雲ひとつない晴天だった。
これなら夜は晴れるに違いない。
月が綺麗だと大はしゃぎする臨也を思い浮かべ、静雄の顔に自然と笑みが浮かぶ。
きっと今日も良い一日になるのだろう。
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臨也へ
最近手紙がないけど、静雄の調子はどうだい?
君達が姿を消してからもう半年以上経つ。
池袋の街は変わらないよ。でも、君達のことが話題が上ることはほとんどなくなった。
それが私には、少し寂しい。
静雄が、人前に出ることができないというのは分かってるつもりだ。
でもそれなら臨也、君だけでも時々こっちに顔を出してくれないか。
話すたびに反吐が出そうな君と会いたいだなんて・・・自分でもおかしいと思うけどさ。
それから幽くんには、一度連絡してやってくれ。
彼、お兄さんが姿を消したことでナーバスになっているから。
君だって妹を持つ身だ。兄弟を心配する感情くらいは分かるだろ。
それじゃあ、君からの連絡を待ってる。
9月15日 岸谷新羅